貞松院について

貞松院について

貞松院は迎冬山(こうとうざん)貞松院(ていしょういん)月仙寺(げっせんじ)
と称し、文禄 2年(1593年)に無哲上人によって開山された浄土宗の寺で、
総本山知恩院の直末寺院であります。

  • 貞松院本堂です

 

貞松院について

 

開山当初は寺号を慈雲院と称していましたが、
正保 2年(1645年)10月 7日に頼水公夫人の没後、
貞松院と改称されました。

 

改称の理由は
二代藩主忠恒公が亡母の遺言を重んじて
母の廟所を当院に建てました。

 

さらに追善のために伽藍を修復し、
寺領40石と20余町歩の広大な山林を寄進して
母公を当院中興開基と定められたことによります。

 

因みに貞松院とは母公の院殿号です。

 

次いで

 

天和 3年(1683年) 7月 3日には、
徳川家康公の 6男・松平忠輝公が、
高島城南の丸で亡くなられました。

 

松平忠輝公の事は本でも紹介されています。

 

 

生前の縁故により、貞松院に葬られました。

 

宝永 3年(1706年)には

 

5代将軍綱吉から永代供養料として、
御朱印30石の寄進を受けて、
以後徳川将軍家の菩提所の一院となりました。

 

そのことにより
藩主家独礼、触頭として
その日常寺務は多忙を極めました。

 

常時出入りの僧俗の数も多く、
その人々の食事のための米の研ぎ水が
毎日のように多量に流し出されていたようです。

 

俗間に
『白水流しの貞松院』との
評判がたったほどであります。

 

今日で言えば公害でしょうか、
往時の賑わいを伝えるおもしろい伝承です。

 

しかし、

 

享和と弘化の 2度の火災によって
山門と土蔵を除く全伽藍を焼失してしまいました。

 

嘉永初年(1848年)に庫裡だけは再建されましたが
本堂未建のまま迎えた
明治維新後は時代の流れから寺勢が急激に衰退に及びました。

 

幸いにして

 

昭和11年(1936年)、現在の本堂が再建され、
現在に至っています。